あんまり良い思い出の無い自分の人生
1985年1月に誕生。
その頃のことは当たり前だけど覚えてない。
母が私にしてくれたこと。
しつけとして暴力を振るうというのが当たり前の時代。
歯科検診があり、母のペースに付いてけれず、あんたのせいで、遅れるとギュッとつねられる。
茶碗をあらっていたら、あんたは父方の祖母に似て、底まで洗わない。だから大っ嫌い。
大型デパートに行けばハンバーガーショップに連れて行き、ここで待っててと、置いてけぼりになる。
などなど。
大学時代にそんな勉強をして、母がやっていた事その多くはネグレクトや身体的虐待、言葉の虐待だって知った。
妹がいて、妹ばかりを可愛がる母。
高校の時、三年間父が無職状態になった。
祖父母は母は何も言ってないようだから、長女であるあなたが言って頂戴という。
母方の祖母が父に「あんた働きに出てないんだって?」と良い、じっと父が祖母を見ている姿を見て、ますます何も言えなくなる。
子どもの前で何も言えないのだろう。
何度も母は仕事に行きなさいと父に言っていたらしい。
大学入ってすぐに、父が多額の借金をこさえていたことを知った。
その後はスピード離婚。
そのあとも大変だった。
19歳。
離婚を受け止めるだけで精一杯だった私。
成人してるから、戸籍をどちらにするか決めなさいと言う母。
これ以上親の問題を子どもに押し付けないでほしいと言った。
大変な時に何もこっちには言わなかったくせに。と。
大学の時に変なテンションでいたらしい。
あまり友達と呼べる人はいない。
不眠症にまず陥った。
気分のムラがその時から激しい。
どこかの出会い系サイトに電話をして色々な人と話しした。
成人を過ぎて、ここからは自分のせいだけど、自信がなくて派遣会社でコールセンターの仕事をした。
その頃2歳年上のパートナーがいた。
彼が恐らく自分の支えになってくれた。
彼が本州に行くってなった時にプロポーズを受けた。
ニコニコしてると思ったら、いきなり気が鬱ぎ込む。
そんなあやこみを支えたい。とは言ってくれたんだけど。
その前に、言われた俺は誰かいないとやってけないから。に引っ掛かった。
私がいないとやってけない。じゃないの?って言った。
これはきっと女である私のワガママだなって今なら思う。
北海道と言う土地で、同じ大陸に母や祖父母がいる生活。
その方がその時の私には大切な事だった。
けど、ガタガタとその頃から体調が悪くなった。
色んな考えに縛られて、実家に戻りたくても戻れない。
かと言って、仕事でうまく成績が残せなかったり、体調が悪くて、仕事に行けない時もあった。
妹や母や祖父母達はみんな今を踏みしめて生きてるのに、何故私はこうなんだろうって思った。
快楽にも溺れた。
結婚というにも憧れた。
なんだろう。
20代後半はハチャメチャだったかもしれない。
29歳。
初めてのデイケアの前に
自分がIQ72
言語性IQ76
動作性IQ86だという事を知った。
職業訓練を受けて、DTPとかWebデザインの仕事がしたい。
と言う私に
主治医からIQがこれだけしかないから、いざ仕事になったら仕事に結びついていかないと言われた。
何度も何度も言われた。
それより結婚した方が良いんじゃないか。と。
ギュッと脳みそが押さえつけられるような感覚になった。
その後心の空虚さや、人生を捨てたい、色んな想いにかられた。
物欲が抑えきれなくなった。
いつの間にか行動がエスカレートして、クレジットカードに手を出した。
なんでこんなに買ってるんだろうって、途中で自分が怖くなった。
今いろいろ業界勉強して、確かにDTPデザインとかWebデザインの仕事はものすごく大変で、求人自体も少ないって知る。
主治医には
「あんたに合う仕事なんかあるか?」と言われたり
なんか自尊心ばっかり奪われる。
31歳。
母は私がこう言う病気だったと知り、いきなり態度が軟化した。
母はどうしても実家に戻したいらしい。
私もその方が良いって分かってる。
だって外に出れないんだもん。
デイケアのセッションにも身が入らない時があるんだもん。
でも私の中の固定概念が邪魔をする。
どうしたい?
私。
主治医は秋には実家に帰るんだから何も考えなくて良いと言う。
自分が感情的に言った一言でそうなった。
それが当たりなのかもしれない。
でもなんか悔しいんだ。
私。
綺麗な化粧をして、毎日会社に行ってた。
それが疲れて、今はすっぴんで、病院に行ってる。
認知療法やっていて、ネガティブ思考の山。
ポジティブにポジティブにってスタッフさん。
今の状況をどうやったら突破できんだろう。
悔しくて仕方がない。
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